太陽はひとりぼっち

1995/06/30 シャンゼリゼ
アラン・ドロンとモニカ・ヴィッティが主演の苦い青春のドラマ。
現代人の孤独がテーマだが僕は共感できない。by K. Hattori



 灼けつくような真夏のローマを舞台にしながら、モニカ・ヴィッティの徹底的に冷めた表情が、やけに寒々しい印象を残す映画。ほとんど厭世的と紙一重の倦怠感は、映画の冒頭から観客をうんざりさせること請け合い。男と別れても、それをまるで他人事のように話す女は、別の男とつきあいはじめても、表情にどこか作ったものがある。ハイキートーンでコントラストの強い画面も、荒涼とした心象風景を象徴するようだ。

 人間関係がものすごく希薄な映画だなぁ。モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアは、恋人との関係にも執着しないし、女友達との関係も上っ面な感じがするし、おそらく唯一の肉親である母親との関係も薄い。母親が株の投資に失敗しても、驚くほど冷淡なんですね。新しい恋人であるアラン・ドロンとの関係も、どことなくよそよそしさを崩さない。親密な関係になり、互いに甘い言葉をかけるようなそぶりをみせても、それが本心からのものかはわからない。男の腕に抱かれ、男の肩越しに見せる表情は、やはりどこかしら醒めて冷ややかなものなのです。

 まるきり感情が見えないというわけではなく、ときおり見せる小さな仕草や芝居から、彼女にも感情の起伏があることは描かれている。でも、それを表に出すことを恐れるかのように、彼女はそれを自分の外面にあからさまにすることを抑制してしまう。喜怒哀楽を内に秘めた女の生活は、底知れない孤独にいろどられて見える。

 感情を押し殺した彼女の生き方に比べると、彼女の恋人たちはじつに感情をあらわにする。最初の恋人であるリカルドは、自分から去ろうとする女をなんとか止めようと、あの手この手で翻意をせまる。夜中に彼女のアパートを訪ねて窓の下でうろうろしたり、とにかく未練タラタラなのである。もっとも、そんな彼の様子を別の友人に向かって「彼にとって今が一番つらいときだから」と解説してみせるヴィットリアには、何が原因で彼がそうなってしまったかという当事者意識がほとんどないんですね。それとも、ひょっとしたら女の人ってみんな多かれ少なかれああいう部分を持っているのかしら。男の方が未練がましいというのは、よく聞く話だなぁ。

 何者にも束縛されないし誰も束縛しない、という生き方は表面的には自由かもしれないけど、それはそれでかなりいびつな人間関係と精神状態を形成しそうだなぁ。それが嫌なら、どこかで周囲の社会と折り合いをつけるしかない。いかにも現代的な孤独を描いた映画だとは思うけれど、僕から見るとこんな孤独ごっこは高校生ぐらいで卒業してもらいたい気分だね。ま、映画自体が1962年の産ですから、時代がそういう孤独を欲していたのかもしれないけど、いま見るとけっこう幼く見えてしまうのだ。


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