瞼の母

1995/06/24 並木座
加藤泰が中村錦之助主演で撮った長谷川伸の傑作。
この映画で泣けるうちはまだ人間が信じられる。by K. Hattori



 長谷川伸原作の新国劇を、中村錦之助主演で加藤泰が監督して映画化。幼くして母と生き別れ、父とも死別した無宿渡世人番場の忠太郎が、母を探し求め、再会し、再び別れるまでの物語。話自体は有名なものだし、最初から結末がミエミエの展開なんだけど、それでもこの映画にはいたく涙腺を刺激されてしまう。主演の錦之助は肌なんてツヤツヤ、目なんてキラキラの美青年で、さぞや人気があったであろうことを思わせます。僕は同じ監督・主演で、やはり長谷川伸の新国劇を映画化した『沓掛時次郎・遊侠一匹』を観たことがありますが、それよりこの『瞼の母』の方がお話がシンプルで、その分盛り上がりの力強さは並大抵ではありません。錦之助の芝居も素晴らしかったし、それを受けとめる実母役の木暮実千代の存在感も映えていた。クライマックスはやはり母子の対面シーン。二人きりの火花散る芝居の応酬は、見応えのある名場面になっている。

 子を捨てて出奔し、行方をくらませていた母。彼女は住み込みの女中から苦労して、今では江戸でも名のある料理屋の女主人になっている。一人娘はまもなく老舗の若旦那と祝言を上げる。着の身着のままで江戸に流れ着いた女にとって、まさに人生の頂点である。自分の過去に後ろぐらいところはないが、これからはなおさら世間に後ろ指さされるようなことはできないと考えている。

 忠太郎とその母親の双方の立場や思惑をきちんと描いているから、再会シーンの両者の反応のギャップが際立つ。子には子の事情があり、親には親の事情がある。母との再会の喜びに身を震わせ、「おっかさん!」と叫ぶ忠太郎の登場に、驚きうろたえる母親。最初はたちの悪いユスリだと思い、次にはよくできたカタリだろうと思う心が、やがて、やはりこれはわが子であると悟るにいたる心情の変化。それでも、彼女は自分が母親だと言い出せない。

 確かに自分には忠太郎という息子があった。でも、息子は9歳の時はやり病で死んだと聞いている。そもそも、親子の名乗りを上げてその後どうするつもりなのか。目的は金かと詰め寄る母に、忠太郎は懐から百両の金をつかみだして言う。再会した母が裕福に暮らしているならよし。もしそうでなかった時のことを考えて、博打場でこつこととためたこの百両には手を付けずにいたのだと。今までは両の瞼を閉じれば母親の面影が浮かんできたというのに、さんざ骨折りして面影の母を消してしまったと泣く忠太郎。彼は足早に去って行く。

 結局、娘の言葉もあって母は忠太郎を追うことになるのだが、忠太郎は渡世のしがらみから何人か人を斬っている。自分の名を呼ぶ母の声を聞きながら、今度は忠太郎が出るに出られない。握りこぶしを口に押し当てて、嗚咽を噛みしめる忠太郎。名作。


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