すももももも

1995/05/21 テアトル新宿
持田真樹のファンには嬉しい映画でしょうがそれ以外の人には?
主人公の影の薄さが映画全体を弱くしている。by K. Hattori



 宣伝コピーが「少女のままであるためにわたし死んでゆきます。」となっていて、まさにそういう内容の映画。看板に偽りなし。身体と心のアンバランスな思春期の中で、自分の中にどんどん閉じこもってゆくことで精神のバランスを取ろうとする少女が、そのまま小さく固く縮こまってゆくわけだが、はっきり言ってお話はぜんぜん面白くない。なんたって、物語は宣伝コピーと一言一句違わないんだもんね。時間も1週間という短い期間に限られているし、登場人物も少ないし、場所も限定されている。ひたすら主人公の少女に密着したカメラが、彼女の日常の細部をなめるようにフィルムに移し定着させる。そのディテールの味わいが面白いと言えば面白いか。

 何というか、全体にすごく薄味な映画。透明なお出汁の真ん中に、すり身のお団子がひとつプカプカ浮いているような映画ですね。これだけの素材で商業劇映画を成立させることが可能だというのが不思議なんだけど、それなりにお話には緩急があるし、独特のリズムも感じる。それは決して力強いものではないが、不快なものではない。むしろココロヨい。その小さなココロヨさだけが、観客を映画の最後まで引っ張ってゆく細い糸になるのですね。

 映画は後半、通常の時間軸を離れてゆく。本来の時間、あるはずだったがなくなった時間、さらにその先にある時間。主人公は、この映画の中で2度死ぬ。おそらく、病院のベッドではなく、階段のてっぺんで赤い夕日に染められながら死ぬのが、彼女にとっての望ましい死だったのかしら。

 映画の後半はいろんな解釈ができそうだし、それはこの映画全体についてもそう。いったいこの映画はなんであるか。分析してもしょうがないので分析なんてしない。それより、画面の中で雪と戯れる持田真樹をながめていた方がいい。観ていて面白いのは、圧倒的に筋を追いにくくなる後半なんだよね。主人公の少女がどんどん動き始める。それをカメラがえんえん見つめ続ける。そして、カメラの視線と少女とのあいだに、ある種の関係性が生まれてくる。観客はカメラの視線を通じて、少女の内面をのぞく目撃者になる。

 僕には登場人物の中で感情移入できる人があまりいなかったんですが、主人公と同年輩の少年少女たちは、この映画を楽しんでいるのだろうか。感情移入できるのだろうか。映画の製作にはテレビ東京の名が見えるが、この映画をテレビで放送して、はたして最初から最後まで見通す人がいるだろうか。いろいろ考えてしまう。考える余地を与えてしまう映画なのだな。退屈ではないが、うむむ〜、なのです。

 映画自体が取り留めのない映画なので、感想もまた取り留めのないものになる。イメージの断片に向けられるのは、また言葉の断片なのです。



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