ナチュラル・ボーン・キラーズ

1995/02/11 松竹セントラル1
オリバー・ストーンの大げさ演出に脳みそが沸騰しそうになる。
原作はクエンティン・タランティーノ。by K. Hattori


 監督オリバー・ストーンが、タランティーノ脚本のどこをどういじくり回したかと議論する以前の映画。要するに、面白くないのだ。深淵深刻なテーマとはほとんど無縁のタランティーノ映画は、しゃれた台詞とアクションの連続で観客を熱狂させる。ストーンはそこに、何やらゴテゴテとした仕掛けを施すことで自分流に料理したつもりかもしれないが、できあがったものは醜悪なゲテものでしかない。

 短いカットをつないだ映像が印象的だが、これはしょせん『ジェイコブズ・ラダー』の二番煎じだし、アニメーションの使用は『ザ・ウォール』の、スクリーンプロセスは『ヨーロッパ』の方が洗練されていたよ。端的に言って、この映画にはオリジナルな手法が全く見られない。

 映像は表現手段でしかない。その映像がオリジナルであろうとなかろうと、内容が面白ければ僕はそれで許す。だが、この映画は内容にも問題ありだ。

 はっきり言って、この映画に登場する暴力描写には、ぜんぜんリアリティがない。これは意図的なものだ。監督は観客と物語の間にあえて距離を作り出そうとしている。ミッキーとマロリーが出会うシーンや、ふたりの殺人行脚の出発点である親殺しを、悪趣味な「アイ・ラブ・マロリー」という劇中劇で描いたことでもそれはわかる。この劇中劇に入り込める観客は、おそらくいないはずだ。暴力は最初からフィクショナルなものとして観客に提示され、そのフィクショナルがゆえに、映画中の暴力はなんのメッセージも発しない。殺人が純粋か否かなんて、この手法の後では陳腐な会話だ。虚構の殺人に、純粋もへったくれもない。性的虐待も、親殺しも、虚構性を最前面に打ち出したこの映画の中では、なんの深刻さも持ち合わせない。

 ありとあらゆる映像テクニックの羅列は、映画に強烈な異化効果を生み出す。だが、その異化効果の激烈さに僕はうんざりし、白けてしまったのだ。僕はミッキーにもマロリーにも親しみを感じない。刑事にもレポーターにも警務所長にも、感情移入しない。殺されるインディアンにも同情できない。誰も好きになれない。ユーモアも感じられない。最初から最後まで、冷ややかな目でこの映画を観続けた。

 観ていて退屈することはない映画だ。次から次へと繰り出されるサーカスのような芸当の数々は、最初から最後まで観客の目を引き留めることが出来るだろう。だが、そこにはなんの感動もない。なんの問題提起もない。ワクワクしなけりゃドキドキもなし。ただ目の前を猛烈なスピードで映像が流れて行くだけだった。

 日本人は60年前の戦争報道に熱狂し、50年前にはこりごりしているもんね。マスメディアの熱狂を皮肉ったって、今さら面白くもおかしくもないよ。


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