エンジェル・ダスト

1994/11/01 シネマライズ渋谷
内容やテーマは面白いのだが、難点は主人公のキャラクター造形にある。
南果歩の目玉ひんむいた大芝居が不愉快でたまらない。by K. Hattori


 監督が何をやりたかったのかはわかるような気がする。それだけに、この仕上がりは残念だ。問題は主演の南果歩で、彼女の存在がこの映画の雰囲気にはいかにもそぐわない。他の登場人物が小声でぼそぼそ喋ったりどこまでも無表情なのは演出の意図だろう。その中でひとりだけがんばってしまった南は、この映画の微妙なトーンやバランスをぶち壊しにしてはいないか。

 脚本にはさまざまな要素が盛り込まれている。連続猟奇殺人、心理分析、マインドコントロール、色覚異常、両性具有、記憶注入。どれかがメインになるというわけではなく、あくまでもこれらの事象を並列に描くことでこの映画は一種異様な雰囲気を醸しているわけだが、南果歩の存在はそれをしばしば台無しにしているように思えてならない。なぜあそこまでムキになって演じる必要があるのだろう。目をむき、鼻息も荒く、ドスを利かせた声ですごむ必要があるのだろうか。

 監督石井聰亙の映画を僕はほとんど観ていないが、それでも前作『逆噴射家族』は観ている。あの映画は今回の映画とは全く逆。特化した個性が小さな家の中で牙をむき、互いの存在を極限まで主張しながら壮絶なバトルを繰り広げる話だった。あの映画の後で『エンジェル・ダスト』を観れば、今回の抑制された静かなタッチが必ずしも監督の個性ではなく、今回の映画のために選択された演出スタイルであることは一目瞭然だ。今回監督が作りたかったのは各キャラクターの個性そのものより、キャラクターも含めたさまざまな要素が溶け合い混じり合った、ドロドロとした何かなのではないか。

 映画はサイコスリラー風にはじまるが、ミステリーとしてはプロットに難があるし、愛憎劇としては表情に乏しく、サスペンスとしても突出したところがない。これらは意図的な確信犯だということが見え見えだし、そこがまたえも言われぬ魅力的な部分だろう。計画的な得体の知れなさが、観ている観客を言いようもなく不安にさせるのだ。とてもわかりづらい内容だが、これとて意図的なものと思えばそれを楽しむことだってできる。すべてが頼りないぐらぐらとした危うさが、この映画のテーマだと僕は考えている。

 南果歩の演技は、非常にわかりやすく含みがない。本来わかりにくくなければならないものを、わかるはずがないのに、無理にわからせてしまったようなところがある。これにはかえって納得がいかないのだ。南の存在感は、この映画の中から不自然に突出している。しかも彼女は画面にほとんどでずっぱり。彼女のことがうっとうしく感じられたのは、僕だけじゃないと思う。もっとも彼女が画面で目立つのは、演技以前に彼女の個性によるもの。そもそもキャスティングの段階で問題があったと言うべきか。(それを言うなら豊川悦司もそうだけど、彼は今回かなり抑えた芝居をしていましたね。)


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