男が女を愛する時

1994/09/13
アル中のメグ・ライアンをアンディ・ガルシアの愛情が支える。
名子役ティナ・マジョリイーノに注目。by K. Hattori


 まさかわからない人はいないと思うけど、パンフレットに書いてある粗筋は嘘ですから念のため。ストーリー紹介はおろか解説者まで同様の解釈をしていますが、これはパンフレット中のように解釈するとエンディングの味わいが理解できません。言っているのは冒頭のバーの場面。アンディ・ガルシアがメグ・ライアンに声をかけるシーンのことです。『ライト・スタッフ』にも似たシーンがあったから、わかる人にはすぐにピンと来るはず。パンフレットがなぜこうもあからさまな間違いを犯すのか、僕には理解に苦しみます。

 オープニングのショットは『クライング・ゲーム』を容易に連想させてちょっとガッカリですが、続くバーの場面から物語にグイと引き込まれます。メグ・ライアンが二人の子供の母親役というのも驚きですが、これは子役の存在感もあってすんなり飲み込めました。多少歳はとりましたが、彼女の豊かな表情はやはり魅力的。「僕の妻は600通りの笑顔を持っている」というガルシアの台詞も、相手役がライアンだからこそ生きてきます。そのガルシアは『ヒーロー/靴をなくした天使』でも見せたの同様、誠実な男を演じさせると抜群の俳優です。今回の役はアルコール依存症の妻をもつ夫という難しい役ですが、彼はこの役も難なくこなしました。

 物語は幸せな家族の描写から一転して、アルコール中毒という病に家庭そのものが蝕まれて行く様子を克明にうつします。僕はこの時点で「ははん、これはアル中克服をテーマにした一種の教育映画だな」と独り合点したのですがさにあらず。病気は一組のカップルが互いの存在の大切さを見つめ直すための道具に過ぎません。映画の半ばでメグ・ライアンが早々とアル中を克服してしまうことからもそれが見て取れます。むしろ本当の物語は彼女の病が癒えた映画の後半にあるのでしょう。妻の病気が治ったにもかかわらず、ガルシア演ずる夫は妻と別れることになりますが、このあたりの描写は見ていて辛くなります。これは僕が男だから余計にかもしれません。

 地味な素材をていねいに見せようとするルイス・マンドーキ監督の演出はやや歯切れの悪い感があるものの、そこは主演二人の魅力が補って余りある。『ぼくの美しい人だから』同様、日常生活の細部描写にこだわりを感じさせる監督ですが、それも僕のような非アメリカ人には興味深く感じられます。こうした細部の積み重ねが物語に奥行きとリアリティを与えているのでしょう。

 約束事とはいえ、ラストシーンがしゃれています。冒頭シーンが伏線になっていますから、主役二人の会話が始まったとたん観客はニヤリとし、心の中で二人に声援を送るはず。(なぜかパンフレット製作者達にはそれがわからなかったようですが。)このシーンの二人の表情が実に切なくて泣かせるのです。もっとも、『ぼくの美しい人だから』も似たようなエンディングでしたけどね。


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