忍道

SHINOBIDO

2011/12/16 映画美学校試写室
日光江戸村が開設25周年に製作した忍者アクション時代劇。
物語の背景が存在しない時代劇もどき。by K. Hattori

Shinobido  鬼怒川の観光名所・日光江戸村(EDO WONDERLAND 日光江戸村)の開設25周年を記念して製作された、エンタテインメント時代劇映画。出演は佐津川愛美、ユキリョウイチ、AKB48の菊地あやかなど。忍びの里の長老役で研ナオコが出演しているのが珍しく、長谷川初範が貫禄のあるところを見せている。監督は『女の子ものがたり』の森岡利行。脚本家出身の監督だが、今回は脚本を『喧嘩番長 劇場版〜全国制覇』の宮本武史が担当している。

 本作の企画がどこからどういう形で出てきたのかは不明だが、映画としてはまるでダメダメだと思う。一番ダメなのは脚本だ。これは時代劇としてまったくサマになっていない。時代劇には定型のフォームというものがあって、その定型さえ崩さなければ、中で何でも可能になるという自由さがある。時代考証など無視してもいいのだ。TV時代劇の「水戸黄門」や「銭形平次」の時代考証はまるでデタラメだが、それでもこれらが立派に時代劇として成立しているのは、定型のフォームを崩すことなくきちんと守っているからだ。それは封建的な身分制度であり、厳格な主従関係であり、男女の役割分担であり、職業意識であり、死生観であり、言葉遣いであり、着物姿であり、身のこなしであったりする。こうした定型さえきちんと守れば、いかなる荒唐無稽なことが行われていても、観客はそれを「時代劇だから」ということで許すのだ。

 しかしこの『忍道』という映画には、その定型フォームがない。一応は時代劇らしい意匠を用いているが、ここには「時代劇らしさ」を生み出すためのバックグラウンドが欠如しているのだ。登場人物たちがいかにデタラメなことをしても、時代劇なら許される。しかしその背後にある大きな物語は、時代劇としての定型フォームに沿っていなければ時代劇にならないだろう。

 忍びの里に暮らす忍者一族と、彼らを根絶やしにしようとする侍軍団・黒羽衆の対立の中で、忍者であるヒロインのお甲と、黒羽衆である木下東五郎の間に淡いロマンスが芽生えるという筋立てが悪いわけではない。問題はこの映画の時代背景がまったくわからないこと。時代は江戸時代後期らしいが(葛飾北斎の話題が出てくる)、その時代になぜ忍者と侍が戦わねばならないのか、その理由がわからない。東五郎の妻はなぜ殺されたのか。身の危険があるのになぜ忍者たちは城下に潜入せねばならないのか。こうした根本的な動機付けが不明なので、主人公たちの織りなすドラマにも必然性がないのだ。こうした「大きな物語の不在」に比べれば、城下に潜り込んで身分を隠していなければならないはずのヒロインが、あれこれ目立つ行動をして正体バレバレになってしまうことなど小さな欠点だ。時代劇は作るのに手間も時間も金もかかる映画ジャンルだけに、せっかく作ったものがこの有様なのは残念でならない。

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2月4日公開予定 銀座シネパトス
配給:ジョーリー・ロジャー
2011年|1時間33分|日本|カラー
関連ホームページ:http://shinobido-movie.com/
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