1984年に製作された『ターミネーター』から25年。前作『ターミネーター3』から6年ぶりとなるシリーズ最新作だ。これまでの3作は予告されていた「スカイネットの反逆による最終戦争=審判の日」をいかに回避するかという戦いだったが、『ターミネーター3』の最後に「審判の日」は不可避的に訪れてしまい、今回の映画はその日の後を描いている。この映画はシリーズで初めて「未来からやって来たターミネーター」が登場しない作品なのだ。ただしここには、これまでのシリーズのどれよりも多いターミネーターが登場する。物語の中の時間は「未来」に追いついてしまった。タイムマシンなど利用しなくても、ターミネーターはそこらじゅうにあふれかえっているのだ。
今回の映画はこれまでのシリーズ、特に1作目・2作目の名場面やエピソードをさまざまな形で応用的に引用している。過去の映画に登場してきたモチーフが巧みにアレンジされ、映画の随所に散りばめられているのだ。そのためこれまでのシリーズを観てきた人にとっては、最新作でありながら懐かしさを感じさせるものに仕上がっている。こうした応用的引用によって過去の記憶が再現され、この映画1本の中に過去3作品がオーバーラップしてくる。「人間そっくりの機械」というシリーズのテーマは、「機械そっくりの人間」という別のテーマを浮かび上がらせ、「人間の心を持った機械」は今回「機械の体を持った人間」という新しいキャラクターとして再生される。
シリーズとしては本作から「新三部作」が始まるそうで、今回の映画では反乱軍の中の一部隊を率いるジョン・コナーが、反乱軍全体のリーダーになるまでを描く。物語の舞台はこれまでの3作から見れば「未来」だが、ジョン・コナーが人類の救世主になることはシリーズ1作目に既に描かれていたこと。つまり新三部作はそこに至るプリクエル(前日譚)になる。
プリクエルはあらかじめ決められている「結論」に向けて物語が進むしかないため、人物を動かすのはさまざまな制約が生じてくる。しかし今回の映画から始まる新シリーズでは、最初からその制約自体が物語のテーマになっていく。「未来は本当に変えられないのか?」「人間は予め決められた運命に縛られた操り人形なのか?」といった問いかけは、映画の中で主人公ジョンが常に自分に問うている事柄でもあるのだ。録音テープに残された遺言の中で母親サラ・コナーは息子に語りかける。「あなたが父親カイル・リースが死ぬとわかっていても、彼を過去に送り出すのだ」。これは「お前は父を殺す」という呪われた予言でもある。ジョンはこの言葉と戦い続けなければならない。
予定された未来を生きる自由意思を持つ人間というモチーフは、何やらカルヴァンの予定説みたいな話。このシリーズは神を見失った現代人のための、新しい「神話」を創造しようとしているようにも見える。
(原題:Terminator Salvation)