革命を成功させてカストロに次ぐキューバ革命政権のナンバー2になったチェ・ゲバラは、国連での歴史的な演説を終えた翌年の1965年、突然キューバ政府の役職をすべて辞して再び放浪の旅に出る。ゲバラの突然の失踪を不思議に思った国民に対し、カストロは自分に宛てられたカストロからの「別れの手紙」を公開する。ゲバラはキューバを去った。彼はその後、南米ボリビアの反政府ゲリラ活動に身を投じることになる。
第1部『チェ 28歳の革命』は無名の若者が革命戦争の英雄になる物語だったが、第2部『チェ 38歳別れの手紙』は革命の英雄だった男が再び無名のゲリラ兵に、そして無名の若者へと戻り死んでいく物語だ。質素なアパートの一室で始まった革命論がどんどん規模を拡げて、ついには一国の体制を根本から覆してしまう第1部の華やかさや派手さは、この第2部には全くない。ゲバラは行く先々で失望や落胆、思惑違いの状況に出くわし、仲間の数はクシの歯が欠けるように次々減っていく。現地の人々の支持は得られず、現地で味方してくれるはずだった活動家たちの支援も得られず、ゲリラ兵たちの思いばかりが空回りする。
キューバ戦争の経過とその後の国連演説を交互に描く映画的仕掛けで、足かけ4年にわたるキューバ革命戦争を2時間に圧縮してみせた第1部に対し、この第2部はゲバラのその後の行動をほぼ時系列に追っていく。画面の下には「○○日目」という簡素な字幕。これはそのまま、ゲバラの死へのカウントダウンでもある。ゲバラがボリビアで殺されることは、映画を観る前から観客の誰もが知っているだろう。(それを知らない人がこの映画を観るとは思えない。)つまり「○○日目」という数字がひとつずつ増えていくことは、それだけゲバラの死が近づいていることを意味するわけだ。
第1部は徹底したゲバラの一人称で描かれていたが、この第2部ではゲバラの国内出現に戸惑うボリビア政府内部の様子やゲバラと共に戦った別動隊の様子なども並行して描き、ボリビアでのゲバラの動きを立体的に描こうとしている。しかしこれがわかりやすいかというと、残念ながらそうはなっていない。映画的な創作を排除して実在した出来事だけを再構成して全体像を描こうとすることの限界が、こうしたわかりにくさになっているのかもしれない。『トラフィック』で複数の場所にいる複数の主人公たちを、接点なしの同時並行で描ききってみせたソダーバーグ監督のことだから、十分にこなれた脚色をすればキューバ戦争だろうとボリビア内戦だろうと、誰にもわかるよう明確に描けたはずなのだ。しかし今回この2部作では、あえてそうしていない。それは「チェ・ゲバラの真実を映画の中に完璧に再現したい」という作り手の思いから出たもの。ゲバラに対する敬意や愛着が、映画的脚色によるわかりやすさを拒んだ結果に違いない。
(原題:Che: Part Two)