19世紀末のウィーンで、町中の人々の話題をさらう若き天才幻影術師アイゼンハイム。その噂を聞きつけた皇太子レオポルトは、婚約者ソフィを連れて劇場を訪れる。だがアイゼンハイムとソフィの間には、十数年前からの深いつながりがあった。嫉妬に駆られた皇太子はソフィを殺害。事件そのものは犯人不詳のまま迷宮入りしたが、その直後からアイゼンハイムの舞台は一変する。ステージには幽霊が現れて、客席の人々と会話をするというのだ。やがて舞台にはソフィの幽霊も……。
エドワード・ノートン主演の幻想的なラブストーリー。映画には19世紀末の文化や風俗がていねいに再現されて、主人公の愛と復讐の物語にリアリティを与えている。19世紀後半から20世紀初頭は奇術が大流行した時代で、その熱気は映画『プレステージ』にも再現されている。『幻影師アイゼンハイム』は当時のステージ・マジックを、最新のデジタル技術を使って再現しているのがユニークだ。
19世紀末の奇術をそのままリアルに再現しても、現代の映画ファンは何も驚かない。当時奇術を見て度肝を抜かれた観客たちと現代の映画の観客が気持ちの上で同化するには、19世紀末の観客がステージの上に見たであろう「幻影」を再現しなければならないのだ。それはステージの上で実際に起きたことではなく、実際にそこで起きていると信じられたもうひとつの現実だ。舞台の上のテーブルでは、植木鉢からみるみるうちに1本のオレンジの木が茂り、そこに本物のオレンジが実る。ステージには本物の幽霊が登場して、観客たちとたどたどしく会話を交わす。当時の観客たちには、そうした奇術のタネがわからなかった。だから映画を観る現代の観客も、そうした奇術のタネを理解する必要はない。従ってこの映画には、アイゼンハイムの奇術の種明かしはひとつも登場しない。この映画の中では、「観客が信じたこと」が真実に他ならないのだ。
映画のラストシーンには、疑問を持つ人もいるだろう。物語の語り手である警部は、アイゼンハイムの企みやトリックのすべてを看破する。しかし警部は本当に、アイゼンハイムの真意をつかんだのか? 警部が見通したトリックの秘密は、アイゼンハイムの行った行動をすべて見破ったと言えるのだろうか? それは警部の思い込みに過ぎないのかもしれない。警部の考えを裏付ける証拠を、映画を観る人は誰も手にしていないのだ。
しかしこの映画は、それで構わない。この映画を支配しているのは、「人間が自分の目で見たと信じたものこそが真実」という原則なのだ。警部が見た「事件の真相」は、警部がそれを真実だと信じているというだけの理由で、この映画における真実になり得るのだ。この主観的すぎる真実を、客観的な真実に見せる方法などいくらでもある。しかしこの映画はあえてそうしない。それはこの「主観的な真実」が、映画のテーマに他ならないからだ。
(原題:The Illusionist)