遠くの空に消えた

2007/07/25 GAGA試写室
ひとりの男が空港で語り始めた雄大なホラ話。
神木隆之介主演のファンタジー映画。by K. Hattori

 神木隆之介主演のファンタジー映画だが、なぜこれをファンタジーにしなければならなかったのか疑問。昭和30年代から40年代頃の「どこでもない日本のどこか」に場所を設定して、時代考証や風俗考証を実証的に積み上げていった方が、より面白い映画が作れたような気がする。作り手がいろいろと苦労して、映画の舞台を「現実の日本ではないどこか」に仕立て上げようとしているのはわかる。でもそれが、映画の中で全然成果を上げていないのがこの映画ではないだろうか。

 この映画には東陽一監督の『絵の中の僕の村』や、エミール・クストリッツァ監督の『黒猫白猫』から、引用やパクリに近い形でアイデアを借りている。しかしこれら先行作品と『遠くの空に消えた』の大きな違いは、『絵の中の僕の村』や『黒猫白猫』が生活感に根ざした強固なリアリズム描写で物語世界を支えているのに対し、『遠くの空に消えた』にはまったく生活感がないことだ。地べたをはいつくばるような泥臭い生活臭の中から、ふとドラマが飛躍したところにファンタジーの入り込む余地があるのに、『遠くの空に消えた』には生活がまったく描かれていない。これが映画の大きな弱点になっている。

 生活描写がないから、主人公の少年少女たちのキャラクターが深く掘り下げられなくなる。彼らはそれぞれ、家庭の事情から大きなコンプレックスを抱え込んでいる。ところがその家庭の事情に、映画はまったく踏み込まない。小さなエピソードや数行の台詞で、世界はずいぶん奥行きが増したと思うのだが、この映画ではそれをしていない。子供たちは、なぜ子供たちの力だけで、映画のクライマックスにある大仕事をしようとしたのだろうか。それは彼らが持つ、大人に対する不信感や軽蔑ゆえだろう。子供の世界と大人の世界はもとより別々に存在している。しかし両者は「生活の場」を共有することで、否応なしに顔をつきあわせる。だがこの映画には「生活の場」が描かれていない。大人たちは勝手に馬鹿騒ぎをし、子供たちは勝手にイタズラに明け暮れる。クライマックスの大規模行動には内的な必然性があまり感じられず、思いつきの大がかりなイタズラにしか見えない。

 子供を主人公にした最近の和製ファンタジー映画には、例えば『HINOKIO』がある。これも最後に子供たちが大きな行動を起こすのだが、そこには子供たちなりの「そうせねばならない」という理屈があり、その理屈を観客が飲み込むことで、観客が子供たちの行動に声援を送り、応援するという仕組みができていた。『遠くの空に消えた』という映画のクライマックスに、そうした必然があるとは僕にはとても思えない。

 映画の冒頭を現代の風景から始め、そこから回想シーンになる構成だが、回想シーンの入口になる運動靴も、小道具としてはだいぶ弱い。所々に面白いシーンもあるのだが、全体としては焦点の定まらない作品に終わっていると思う。

8月18日公開予定 渋谷東急ほか全国松竹東急系
配給:ギャガ・コミュニケーションズ
2007年|2時間24分|日本|カラー|ビスタサイズ|ドルビーSR、ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://to-ku.gyao.jp/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:遠くの空に消えた
メイキングDVD:遠くの空に消える前
サントラCD:遠くの空に消えた
主題歌「甘い香り」収録CD:きらきら(初回限定盤)
主題歌「甘い香り」収録CD:きらきら
ノベライズ:遠くの空に消えた
関連DVD:行定勲監督
関連DVD:神木隆之介
関連DVD:大後寿々花
関連DVD:ささの友間
関連DVD:小日向文世
関連DVD:鈴木砂羽
関連DVD:伊藤歩
ホームページ
ホームページへ