酔いどれ詩人になるまえに

2007/05/31 映画美学校第2試写室
ブコウスキーの自伝的小説をマット・ディロン主演で映画化。
駄目男と駄目女の腐れ縁に泣ける。by K. Hattori

 チャールズ・ブコウスキーの自伝的小説「勝手に生きろ!」を、『キッチン・ストーリー』のベント・ハーメル監督が映画化している。ブコウスキーの分身である主人公ヘンリー・ナチスキーを演じるのは、『クラッシュ』で人種差別主義者の警官を演じたマット・ディロン。ナチスキーと深い仲になる女たちを演じるのは、リリ・テイラーとマリサ・トメイ。

 物語の舞台は1940年代のアメリカのはずで、風俗描写なども何となくそれ風に作られている。だが物語の中には、時代性がほとんど感じられない。当時のアメリカは戦争中のはずだが、そうした社会的出来事は物語の中から完全に排除されている。物語はすべて、主人公ナチスキーの周囲で起きている、ごく小さなものばかりなのだ。この物語は主人公を中心とする小さな世界を、緻密に描き出していく。だがそこには、充実した何かがあるわけではない。主人公は自称物書きの飲んだくれで、彼の視線から描かれた世界はすべてがよそよそしく、他人行儀で親密さが感じられない。世界の中で、主人公は孤立している。しかしそれは世界が主人公を拒んでいるのではなく、主人公自身が周囲の世界に溶け込むのを拒んでいるのだ。彼は世界が自分を取り込んでしまうことに抗うように、酒を飲み、手近な紙切れに言葉を書き記し続ける。

 ナチスキーはコリン・ウィルソン言うところの「アウトサイダー」みたいな存在なのだ。(言うまでもないことだが、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」と、マット・ディロンの出世作となったコッポラの映画『アウトサイダー』にはなんの関係もない。)アウトサイダーは、社会から疎外された存在だ。だがその疎外は、自ら選んだものでもある。アウトサイダーは社会の外側から、社会と、自分自身を見つめている。この映画の中でアウトサイダーであるナチスキーは、社会とその中で暮らす人々を軽蔑の目で見つめている。だがその軽蔑の対象は、唾棄すべき社会の中で暮らさざるを得ない自分自身にも向けられる。

 世の中は糞ったれだが、その糞ったれな世の中でその日暮らしをする自分もまた、最低の糞ったれなのだ。酒とセックスとギャンブルは、糞ったれな世の中に対するせめてもの反抗であり、自分自身もまた糞ったれであることをつかの間忘れさせてくれる現実逃避の手段なのだ。

 この映画で笑ってしまうほど哀しいエピソードは、主人公ナチスキーが尻軽のガールフレンドから毛ジラミを移される話だ。自己流のいい加減な治療で陰部を腫れ上がらせたナチスキーが、会社の面接に行くため、自分に毛ジラミを移した張本人からイチモツに包帯を巻いてもらう馬鹿馬鹿しさ。だがこの瞬間こそが、このふたりにとって最も幸福な瞬間だったのかもしれない。ふたりは自分たちが、共にアウトサイダーであることを自覚しているからだ。やがて彼女はナチスキーと別れ、社会の内側に自分の居場所を求めることになる。

(原題:Factotum)

8月公開予定 銀座テアトルシネマ、シネセゾン渋谷
配給:バップ、ロングライド 宣伝:メゾン
2005年|1時間34分|アメリカ、ノルウェー|カラー|アメリカンビスタ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://yoidore.jp/
DVD:酔いどれ詩人になるまえに
DVD (Amazon.com):Factotum
原作:勝手に生きろ!(チャールズ・ブコウスキー)
原作:勝手に生きろ!(チャールズ・ブコウスキー)
関連DVD:ベント・ハーメル監督
関連DVD:マット・ディロン
関連DVD:リリ・テイラー
関連DVD:マリサ・トメイ
ホームページ
ホームページへ