寂しい時は抱きしめて

2007/03/23 メディアボックス試写室
セックスだけでは満たされない恋心を描くラブストーリー。
人物描写に新しさを感じる。by K. Hattori

 相手が誰であれ、セックスすることで肉体的な欲望は満たされる。でも本当に好きな相手とでなければ、身体は満足できても心が満たされることはない……。これが事実かそうでないのか、僕には何とも言えない。肉体的な満足感が本当に強ければ、それで心も満たされるんじゃないかな〜、などと考えたりもする。でもこれは、そうした議論をするための映画じゃない。この映画のヒロインであるライラは、肉体的な欲望を満たすだけのセックスに満足できなかった。その不満を解消するために、次々に男たちとセックスしてみたが、それでも彼女の不満が満たされることはなかった。それが「この映画の描いている事実」なのだ。ひょっとしたら、彼女はデビッドに出会い、彼とのセックスに本当の満足を感じたからこそ心が満たされ、それを恋愛だと思いこんでいるだけなのかもしれない。でもこの映画の描写自体に、そうした議論の余地はあまりない。彼女は恋をする。恋をしているから、セックスにも満ち足りた思いを持つ。それが「この映画の描いている事実」なのだ。

 ヒロインのライラにしろ、恋人のデビッドにしろ、映画の中では性的にかなり奔放な(自由な振る舞いをする)人物として描かれている。しかしこの映画はそんな彼らの性的な行動を、他の行動と切り離して描いているところがリアルだと思う。彼らは性的な振る舞いとは裏腹に、仕事や生活面ではちゃんとした社会人なのだ。昼間の彼らの顔と、夜の顔(ベッドの中での顔)とは大きなギャップがある。どうも映画を観ている人間というのは、映画の中で性的に奔放な人間は、他の生活一般に関しても奔放なのが当然だと考えるのではないだろうか。性的なだらしなさは、他の生活におけるだらしなさにも通じる。性的に厳格な人は、他の方面でも厳格に違いない……。日常体験を通してみれば、そうした性と性格の一致などというものが、あまりあてにならいものであることはわかるはずだ。仕事の上での生活面でもきちんとしている人が、セックスに関してはだらしなく振る舞うこともある。逆に仕事も生活もだらしない人が、性に関してはみょうに保守的な振る舞いを見せることもある。その人の日常的な振る舞いと、セックスにおける振る舞いは別問題。まさに「へそから下は別人格」なのだ。この映画は、そのあたりがうまく描けている。

 しかしこの映画の主人公たちは、結局のところ「へそ」の上下に分裂していた人格を、ひとつに統合していこうとしている。それは「本当に好きな人がいるなら、その人以外とはセックスしない」というイデオロギーだ。心と心、精神と精神、魂と魂が一致した相手とは、性に関しても一致する、一致させる、いや、何が何でも一致させねばならない。おそらく性的な自由が尊重される現代社会において、これだけが最後の一線として守られている性的な道徳観なのではないだろうか。要するに、月並みな結論なのです。

(原題:Lie with Me)

5月公開予定 シアターN渋谷
配給:AMGエンタテインメント 配給協力・宣伝:フリーマン・オフィス
2005年|1時間33分|カナダ|カラー|ヴィスタサイズ|SRD
関連ホームページ:http://www.
DVD:寂しい時は抱きしめて
DVD (Amazon.com):Lie With Me
原作洋書:Lie with Me (Tamara Faith Berger)
関連DVD:クレメント・ヴァーゴ監督
関連DVD:ローレン・リー・スミス
関連DVD:エリック・バルフォー
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