星影のワルツ

2007/02/22 東芝エンタテインメント試写室
実家に一時帰省している若い写真家と祖父の交流記。
写真家・若木信吾の監督デビュー作。by K. Hattori

 人気写真家・若木信吾の映画監督デビュー作。若い写真家が実家に帰省し、祖父と交流を持つという何でもない日常の風景を淡々と描く。もちろん主人公の写真家は監督の分身であり、映画に登場する祖父との交流も、監督自身と祖父の交流を下敷きにしているのだろう。映画はもちろんフィクションだ。しかしその中に、監督自身が自分自身の友人や職場の人にインタビューする映像などが挿入されていて、この部分はドキュメンタリーになっている。

 この映画はドキュメンタリーではない。ベースにあるのは現実だ。しかし映画はその現実を、現実そのままに再現しているわけでもなかろう。映画のすべてのシーンが、主人公の一人称になっているわけではない。映画の冒頭には、主人公の帰省を友人たちが待っている場面があるが、この場面は友人ふたりの会話のみで成り立っていて主人公(つまり監督)が実際にこんな場面を観たわけではない。祖父が飲み屋で他の客に年齢を尋ねられ「九十だ」と答えるとぼけたシーンも、この場面に監督の分身である主人公のカメラマンは登場しないのだから、このユーモラスな場面が監督の視点からの純粋な再現であるはずはない。これはやはり、創作でありフィクションなのだ。

 ここにあるのは現実ではなく、現実を写した肖像写真なのだ。写真はレンズと光線の作用によって、現実を微妙にゆがめる。流れていく時間の中の一瞬を切り取ることで、現実の中に隠され普段は見過ごされている物事や表情をあらわにする。誰でもよく知っている知人や友人の写真を撮ったとき、「この人はこんな顔をしてたかな〜」と首をかしげたことがあるに違いない。現実はカメラに写すことで、肉眼で見ていた現実以外の何かに変貌してしまう。写真家はそれを知っているから、現実を現実のままに写すのではなく、現実を現実らしく写すことに心を砕く。そのためには被写体を演出することもある。被写体を不自然にゆがめることもある。しかしそれによって、レンズを通して記録された現実は、ようやく普段通りの現実になるのだ。

 映画の中の現実は、本物の現実ではない。しかしこれは監督にとって、本物以上に本物らしい現実となっているに違いない。だが映画を観る人にこれが本物に見えるかというと、そうは問屋が卸さない。おそらく問題なのは、主人公の祖父を演じている喜味こいしの存在感だ。年季の入った芸人である彼が発散する、華やかでいながら品のいい色気。これこそこの映画最大の魅力であると同時に、映画を監督が作り上げた虚実皮膜の世界から引きはがしている最大の原因でもあるのだ。監督が作る「らしさ」のリアリズムと、喜味こいしが作り出す芸人のリアリズムという肌合いの違いだろうか。

 喜味こいしの登場シーンは、彼が誰と会話していても喜味こいしのワンマンショーになってしまう。100%芸人。しかしこの芸人魂が、最後のバイオリンの場面で生きている。

GW公開予定 ライズX
配給:キネティック
2006年|1時間37分|日本|カラー|ビスタサイズ|ステレオ
関連ホームページ:http://www.hoshikage.jp/
DVD:星影のワルツ
原案:Takuji―若木信吾写真集
関連DVD:若木信吾監督
関連書籍(写真集):若木信吾監督
関連DVD:喜味こいし
関連DVD:山口信人
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