うつせみ

2005/12/16 スペースFS汐留
キム・ギドク監督作にしてはドギツくない仕上がり。
少し抽象的なぶん寓話性が高い。by K. Hattori

 傷ついた女がいる。彼女の肉体と心の傷はあまりに深すぎて、涙を流すことすらできない。そんな彼女とひとりの青年が出会う。彼がどこから来て、どこへ行こうとしているのかはわからない。しかし青年は傷ついた女を見て、彼女を救うため手をさしのべる。女は黙って青年についていく。青年がやることの是非は問わず、ただ彼に寄り添い、共に生きることで彼女は少しずつ癒される。青年に悪意はない。青年は誰も傷つける気はない。だが彼は心ならずも誰かを傷つけ、恨みを買い、涙を流し、捕らえられ、女と引き離される。だが彼女はいつかきっと、彼が自分のもとに帰ってくることを信じるのだ……。

 『春夏秋冬そして春』と『サマリア』に続く、キム・ギドク監督の最新作。今回の映画では、主人公の男女カップルがほとんどまったく言葉を発しないのが特徴。ヒロインもほとんど言葉を話さないが、その相手役となる青年は、映画に登場してから最後までついに一言も言葉を発しないのだ。この映画は主人公たちが言葉を語らないという不自然な制約の中で、言葉にはならない「愛」と「信頼」を描こうとしている。もちろんふたりは聾唖者というわけではない。それでは言葉を使わないのが「自然なこと」になってしまう。ふたりは言葉をしゃべることができる。でもしゃべらない。しゃべる必要がないのだ。

 「愛」と「信頼」に言葉はいらない。沈黙の中でヒロインに語りかける青年の姿は、盛んに「愛」を言葉に出しつつ暴力を振るう彼女の夫の姿と対照的だ。彼女の夫は資産家だし、社会的な地位もあれば権力も持っている。しかし彼は妻に暴力を振るい、暴言を吐き、彼女を家に閉じ込め、外出時の行動をいちいち詮索するのだ。そこに「愛」はあるのか? それも一種の「愛」の形なのか? 映画は彼の姿を青年と対比させることで、夫の支配的な愛情表現を「そんなものは愛ではない!」と言っているのだろう。

 キム・ギドク監督がクリスチャンだという予断からこの映画を観るならば、この青年はキリストだと解釈する事もできる。彼はよい教育を受けながら放浪生活に入り、見ず知らずの人の家に厄介になりながら旅を続けている。時に人を救い、時には迫害を受ける。やがて彼に付き従う者を得て旅を続けるものの、罪なくして公権力に捕らえられ、そこで嘲りと不法な暴力を受ける。この解釈に沿うならば、映画の最後に登場する青年は「復活のキリスト」だろう。つまり青年は一度死に、その後に甦ったのだ。

 甦った青年の姿は、青年の帰還を信じて待ち続けた女の目にしか見えない。それは「信仰」の目を通してみた真実であり、ありのままの現実とは必ずしも一致しない。青年は実際にはそこにいないのだ。女は立ち去った青年を追慕し、その思い出をたどるように青年と過ごした家々を訪ねる。まるで聖地巡礼のように。この映画は信仰と救済の物語なのかもしれない。

(英題:3-iron)

2006年公開予定 恵比寿ガーデンシネマ他にてロードショー
配給:ハピネット・ピクチャーズ、角川ヘラルド・ピクチャーズ
2005年|1時間28分|韓国、日本|カラー|ヴィスタ|ドルビーSR
関連ホームページ:http://www.herald.co.jp/
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