月光の下、我思う

2005/10/28 VIRGIN TOHO CINEMAS六本木ヒルズ Screen 2
主人公たちが時々日本語をしゃべるのが気になる……。
物語は『ミモザ館』を思い出した。by K. Hattori

 戦前のフランス映画に『ミモザ館』という作品がある。下宿屋の女主人が義理の息子に恋をして破滅する話だ。監督はジャック・フェデー。この『月光の下、我思う』を観て思い出したのは、その『ミモザ館』だった。舞台は1960年代の台湾。母と娘だけの裕福な家庭を舞台に、娘の恋愛に横やりを入れる内に、いつしか娘の恋人に恋してしまう母親を描いている。『ミモザ館』では中年女性の恋心があくまでも精神的なものとして描かれていたのだが、『月光の下、我思う』ではそれが具体的に描かれている分だけスキャンダラスの度合いが増している。

 物語を回していくのは、映画の中で2度の恋愛と失恋をすることになる娘シー・リェンだ。しかし映画の主人公として物語の中心にいるのは、その母バオ・チャイだろう。かつて東京で結婚し、その後離婚したという彼女は、娘が父方の従兄弟と交際していることを知って別れさせてしまう。苦労して育てた娘がやっと学校の教師にまでなったというのに、そのタイミングで結婚などとんでもない。まあ反対理由はそれだけでもないのだが、このあたりはまだ何となく話はわかる。ありふれた話なのだ。恋に破れた娘が勤務先の学校で本土出身の青年教師と付き合い始めると、母親はそれにまた反対する。これもまあわかる。離れ小島の学校に転勤した青年が娘に手紙を出しているのを知り、その手紙を娘に渡さず取り上げてしまうというのも、褒められた話ではないがまあアリガチな展開ではあった。

 しかし娘への手紙を取り上げた母が、ラブレターの文面を読んで心をときめかせ、女としての自分を意識し始めたあたりから、映画はなんだかあらぬ方向へと流れていく。これは意外性があって面白い。しかしここに至る道筋に、どうも飛躍があるように感じられる。飛躍があるからこそ意外性に驚くこともできるのだが、気位の高い彼女がなぜかくも娘の恋人に惹かれるのか、その理由が僕にはちょっと理解できなかった。

 母親やその友人たち、お手伝いさんなどが日本語で会話をする場面があり、彼女たちがかつて東京で暮らしていたことが劇中で語られる。こうした境遇が、あるいはこの母親の気位の高さの背景となっているのかもしれないが、それがどんな事情によるものなのか僕にはさっぱりわからなかった。台湾の近現代史に精通していれば、このあたりが理解できるのだろうか。台湾の観客にはこの事情がちゃんと通じているのかな〜、などと思いながら映画を観ていた。

 映画のクライマックスは、娘の部屋の隣で声を押し殺して母親がオナニーをする場面や、娘を訪ねてきた青年を母親が誘惑する場面だろう。結局この母親のせいで娘の幸せはぶち壊しになってしまうのだが、このお話を作るためには、やはり1960年代という時代が必要なのかもしれない。現代だったら青年も母親も素知らぬ顔をして、娘だけが何も知らないという展開が自然かも。

(原題:月光下、我記得 The Moon Also Rises)

第18回東京国際映画祭 アジアの風 台湾・電影ルネッサンス
配給:未定
2004年|1時間45分|台湾|カラー
関連ホームページ:http://www.tiff-jp.net
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