極道の妻(おんな)たち

情炎

2005/3/10 東映第1試写室
高島礼子主演の『極妻』シリーズ第5弾。共演に杉本彩。
リアルな演出が荒唐無稽な面白さを殺した。by K. Hattori

 99年からスタートした高島礼子版『極道の妻たち』シリーズの第5弾。このシリーズはこれまでずっと関本郁夫監督が演出を手がけてきたのだが、今回は『新仁義なき戦い/謀殺』の橋本一監督にバトンタッチ。脚本はシリーズのほとんどを手がけている高田宏治。高島版ではシリーズ2作目の傑作『死んで貰います』を書いたのもこの人だが、今回はシリーズものにありがちな自家撞着の弊害から抜け出すことなく、型をなぞるばかりで終わってしまったように思う。

 神戸のやくざ組織菅沼組で、後継者に指名されていた若者頭・西郷龍二が殺された。それから3年。未亡人の波美子は夫の跡を継ぎ、若者頭に成長した夫・龍二の弟・恭平と共に菅沼組を支えてきた。現在菅沼組の中で新たな後継候補とされているのが、菅沼組長の娘と結婚して幹部に大抜擢された河本一兆という韓国人やくざ。彼は大阪の坂下組と提携することで組織を強化し、幹部会のほとんどを自分の派閥に加えている実力者だ。ただひとり河本になびかないのが西郷組。しかも幹部会が後継河本でほぼまとまりかける中、病床の菅沼組長は自分の後継者にまだ若い西郷恭平を指名する……。

 やくざ組織の跡目争い。二代目候補の妻がヒロイン。そのライバル候補の妻ともうひとりの女の三角関係。こうした人物配置は『死んで貰います』と同じなのだが、おそらく似たような設定はシリーズの他作品にもあるに違いない。この映画は「型」の映画だ。ひょっとすると高田宏治の脚本は、そうした「型」を、あえて強く意識してのものだったのかもしれない。しかし橋本一監督は「型」よりも「リアリズム」志向のようで、紋切り型の型の芝居として成立している脚本と、リアルな人間を描こうとする橋本演出の間には軋みが生じている。

 例えば恭平が襲撃される場面は、恭平の「動」の芝居と、一兆の「静」の芝居のコントラストをもっと強調したほうがメリハリがつくし、壮絶な暴力シーンの後に霊安室のシーンを持ってくる効果も大きくなる。ラストシーンの大立ち回りはもリアルな芝居では凄惨過ぎて正視できず、我慢に我慢を重ねた末に殴りこむの爽快感より、暴力に対する嫌悪感が先に立つものになっているように思う。こういうのは「様式美」として演出しないと、観客はカタルシスを感じられないのではないだろうか。

 凄惨な殺しの場面を血なまぐさく描くことで映画が生きることもあれば、殺しのリアリズムより美意識を優先することで生きる映画もある。『極道の妻たち』はそもそもリアリティとは無縁なはず。往年の『緋牡丹博徒』シリーズの殴りこみと同じで、こんなものは絵柄の美しさをまず優先すべきだと思う。杉本彩という大物をヒロインのサポート役に持ってきて、銃剣つき拳銃という実用性があるか疑問だけどユニークな武器まで作って見せた割には、最後の大アクションが盛り上がらないのは非常に残念。

3月26日公開予定 新宿オスカー
配給:東映ビデオ
2005年|1時間58分|日本|カラー
関連ホームページ:http://www.toei-video.co.jp/
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