1972年に製作されたマフィア映画の古典にして、フランシス・コッポラ監督の出世作。製作25年を記念して1997年にサウンドをデジタル・リマスターしたフィルムが作られたが、日本では東京ファンタで1度上映されたきり一般公開されていなかった。それが今回、ようやく劇場で公開されることになった。僕自身、この映画はテレビ放送、リバイバル公開、DVDなどで何度も繰り返し観ているのだが、やはりスクリーンで観るのは格別。名作は何度観ても新しい発見があるものだが、この映画はまさにそうだ。表面的なストーリーの面白さに加えて、その下に何層にも積み重なったドラマがある。
今回映画を観てつくづく感じたのは、この映画は世界のどこにでもある「二代目の苦悩」を描いた物語だということ。カリスマ的な魅力と実力を兼ねそなえた父親ビトー・コルレオーネが、ニューヨークで巨大な事業を作り上げる。だが映画の主人公である三男マイケルは、父の仕事を嫌って家を離れている。だが父親が倒れ、長男が急死したことで、マイケルは否応なしに父の仕事を引き継がざるを得なくなる。いざ仕事をはじめてみれば、順風満帆に見えた仕事も見かけほど順調ではないことがわかってくる。同業者からは常に地位を脅かされ、役所の締め付けも激しい上に、資金繰りも苦しいのだ。三男は周囲の反対や反発を押し切って、ラスベガス進出という新規事業に乗り出すことにする。
父親の仕事を嫌って別の生き方を模索しているマイケルの姿は、この映画が作られた1970年代の若者たちにとってまさに「自分たちの分身」と映ったのではないだろうか。だがマイケルは結局、家に戻って父の事業を継がなければならなくなる。これはマイケルにとって、青春の夢が挫折したことを意味する。だがそのことをもっとも悲しんでいるのは、じつは父親本人なのだ。
映画の中で印象的なのは、銃撃された父を病院に見舞ったマイケルが父の手を握りしめながら「僕がそばにいるよ」と言う場面。ここでビトーが見せる涙の中には、嬉しさもあるだろうが、悲しさも混じっている。ビトーは自分のもとから巣立っていこうとするマイケルを、心の中では応援していたのだ。そのマイケルを、事件に巻き込んでしまった申し訳なさ。病院から退院したビトーが、マイケルのその後を聞かされた時の絶望したような表情。そして有名な「権力の継承」の名場面。この会話の中で、父と息子は「永久に失われた夢」について語り合っている。
『ゴッドファーザー』はマイケル・コルレオーネが父に代わって巨大帝国を築いていく物語だが、その内実は、ひとりの夢見る青年が現実の前に挫折していく物語だ。マイケルの苦悩と挫折は、続編となる2本の映画でさらに深まっていく。シリーズ完結編でマイケルは絶望と孤独のうちに死んでいくが、そこにつながるすべては、この1作目の中に含まれているのだ。
(原題:The Godfather)
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