トーキョー×エロティカ

2002/04/03 映画美学校第2試写室
瀬々敬久監督お得意の時間錯綜を極度に押し進めた実験作。
映画そのものより、語り口が非常に面白い。by K. Hattori

 '90年代に「ピンク四天王」の異名を取り、最近は一般映画にも進出して意欲的な作品を作り続けている瀬々敬久監督の2001年度作品。昨年夏に『トーキョー×エロティカ/痺れる快楽』のタイトルで劇場公開されている作品だ。物語は95年に起きた地下道毒ガス散布事件で、主人公のひとりケンヂが死ぬところから始まる。その2年後。かつてケンヂの恋人だったハルカは、昼間はOL、夜は街娼として客を取る生活をしていたが、客のひとりにラブホテルで殺されてしまう。こうした出来事は、観客に容易に「地下鉄サリン事件」や「東電OL殺害事件」を連想させるだろう。もちろんこの映画は、そうした実在の事件を踏まえた上で、これらのエピソードを作っているに違いない。だがこれは実在の事件をモデルにしたわけではないし、事件を引用してるわけですらない。観客の頭の中にある「実在の事件の記憶」を、こうしたエピソードが軽く刺激する。それこそが、この映画が最初に観客に仕掛けるトリックなのだ。

 映画は主人公たちの死から始まり、その過去、その未来、主人公たちと無関係に存在する別のエピソードなどをからめていく。しかしこの映画は現在・過去・未来という連続した時間の流れを、ただ単にバラバラにほぐしているわけではない。主人公の死を支点にして描かれるのは、「主人公たちが死ぬ前に存在したかもしれない過去」や「主人公たちが死んだ後に存在するかもしれない未来」のようにも見え、最後には主人公たちの死という物語の支点すらも「存在したかもしれない死」という形で相対化されてしまうのだ。オウムのサリン事件を連想させるけれど、サリン事件そのものではないケンヂの死。東電OL事件を連想させるけれど、東電OL事件ではあり得ないハルカの死。我々が知っている「現実の事件」と、映画の中で描かれる「現実の事件」の差異が、映画の終盤になってこの物語全体に揺さぶりをかける。

 この映画は、並行する複数の時間の流れを、ひとつの時間の中に多重露光しているのだ。ケンヂとハルカが主人公の、Aという映画がある。同じ俳優とセットと小道具を使って、Aとよく似ているがまったく違うBやCという異なったバリエーションの映画も作っておく。Aという物語の回想シーンにBのシーンを挿入し、Aという物語の後日談にCという物語をつないでしまう。当然物語はうまくつながらない。整合性がない。だがその整合性のなさに、ケンヂとハルカというキャラクターが、ふたりが暮らしたケンヂの部屋が、曲がったスプーンが、物語の連続性を作り出してしまう。物語が解体寸前にきしみかけるのを強引につなぎ止めるのが、ウサギのぬいぐるみを着た「死神」というキャラクター。死神がハルカを殺し、ケンヂを犯すことで、物語はバラバラに解体することを、かろうじて思いとどまっている。

 瀬々監督は新作『DOGSTAR』も公開されるが、それよりはこの『トーキョー×エロティカ』の方が面白いかもしれない。まぁ趣味の問題ではあるけれど。

2002年5月中旬公開予定 ユーロスペース(レイト)
製作:国映、新東宝 宣伝:アルゴ・ピクチャーズ

(上映時間:1時間17分)

ホームページ:http://www.eurospace.co.jp/

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