NN-891102

2001/07/30 サンプルビデオ
原爆の爆音にとりつかれた男の生涯。一人称の原爆映画。
時代考証などを手際よくこなしている点に注目。by K. Hattori

 西暦2000年8月9日午前11時2分。60歳の零一は1本の録音テープを再生装置にセットする。そこには今から丁度55年前、偶然録音されたはずのある音が記録されていた。1945年8月9日午前11時2分。長崎県浦上に原子爆弾が投下された。たまたま防空壕にいた零一と母は爆弾の直撃を免れたが、工場勤めの父親はこの原爆で死亡。父親が工場から預かっていた巨大な録音機だけが、零一の手元に残された。零一はこの録音機を使って、身の回りのさまざまな音を録音し始める。何よりも熱中したのは、原爆投下の瞬間に聞いた爆音を再現しようとすることだ。零一は次第に「爆音の再現」という行為にのめり込み、とりつかれたようにあらゆる方法を実験するようになるのだが……。

 大阪芸術大学映像学科卒の柴田剛の初長編作品。被爆という今や「日本人の共通体験」となっている事件をモチーフとしながら、それを他者の介入を許さないきわめて主観的な事件として描いている点がユニーク。原爆体験というのはそもそもが広島なり長崎なりでそれを体験した人たちのみが有する記憶であったはずなのに、その後の平和運動や教育活動などを通じて、いつの間にか日本人全体の共通体験に格上げされてしまった。広島や長崎で実際に被爆した人たちが「我々は被爆者だ」と言うのはわかる。しかしそうではない現代の日本人が、「世界で唯一の被爆国の国民」という共通項を作って、現実の被爆者たちと同列に原爆を語る姿を、僕は時々うさんくさいと思ってしまうのだ。これって平和運動を日本人の手に独占しておきたいという、ある種の政治的なレトリックに過ぎないんじゃないだろうか。

 この映画はひとりの少年の被爆体験を出発点にしたドラマだが、ここでは主人公の体験が外部にまったく広がっていかない。主人公が原爆体験から平和運動に身を投じるとか、原爆体験の語り部になるというなら話はずっとわかりやすいのかもしれないけれど、この映画では主人公の体験がまったく社会的広がりを持たないまま個人の中で凝縮していく。主人公の原爆体験は彼個人のきわめてプライベートな世界を作り上げ、そこにはいかなる他人の侵入も許されない。彼の原爆体験は社会に向かって開かれていない。その体験は誰とも共有されることがない。きわめて自閉的なものだ。しかしそもそも個人の体験とは、多かれ少なかれそうした外部との断絶を持つはずだ。主人公・零一の趣味はいささかエキセントリックすぎるが、この映画は社会の中で普遍化されることのない個人の体験を描くことで、巷にあふれる「世界で唯一の被爆国民」という声の欺瞞を吹き飛ばす。

 胎内回帰というのがこの映画のもうひとつのモチーフ。零一が続ける爆音再生の研究は、やがて胎児が子宮の中で耳にしていた心音を再現する研究へと繋がっていく。子宮の中の胎児と、袋詰めの猫のイメージの連続性。未整理な部分も目立つが、印象に残る作品だ。

2001年8月4日公開予定 シネマ・下北沢
配給:cinema@D.M.T. 協力:レン・コーポレーション
(上映時間:1時間15分)

ホームページ:http://www.dxmxtx.com/nn891102/

Click here to visit our sponsor

ホームページ

ホームページへ