落穂拾い

2001/06/13 日仏学院エスパス・イマージュ
大量消費社会が生み出した現代の落穂拾いはちょっと格好いい。
アニエス・ヴァルダ監督のドキュメンタリー映画。by K. Hattori

 『穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない』。これは旧約聖書(レビ記19:9)に書かれている、古代イスラエルの律法です。聖書の別の箇所では、夫を失ったモアブの女ルツが姑ナオミの親戚の畑に行き、刈り入れをする農夫たちの後について落穂を拾っている(ルツ記2:2)。落穂拾いは自分の畑を持たない貧しい人たちの正当な権利として、旧約聖書の時代から認められている。19世紀フランスの画家ミレーが書いた「落穂拾い」という絵がある。落穂拾いは収穫期の風景として、つい数十年前まではどこでも見られたものだった。そして現代。収穫物の刈り入れが機械化され、麦や稲の落穂があまり出なくなった今でも、さまざまな理由で「落穂拾い」をする人たちは存在します。

 市場経済の中からはじき出された規格外の品々を拾い集め、自分たちの生活に役立てること。それがアニエス・ヴァルダ監督の考える現代の「落穂拾い」です。ジャガイモ畑で機械が掘り残したイモを拾い集めるのは、いわば古典派の落穂拾い。大きすぎたり小さすぎたり傷ついたりして商品規格に合わず、畑に大量投棄されてしまうジャガイモの山から食べられそうなものを拾い出すのが現代派の落穂拾い。畑の中にうずたかく積み上げられているピカピカのジャガイモたちを見れば、誰だって「もったいない!」と思う。だったら拾って自分たちで食べればいい。何も恥ずかしいことじゃないのです。

 この映画にはゴミ箱をあさる人々が何人も登場する。スーパーのゴミ箱には、賞味期限が切れたり、商品在庫の整理のために、封も切っていない食料品が大量に捨てられる。大量消費社会の裏側では、まだ食べることのできる食品が、「商品価値を失った」という理由だけで大量に捨てられている。食べ物を粗末にしたら罰が当たると、子供の頃に躾けられた人は多いだろうに、自分たちの見えない場所で、食べ物は新鮮なまま生ゴミになっているのです。これは家庭電化製品も同じ。家具も同じ。新しい家電製品を買えば、新しい家具を買えば、それまで何不自由なく使っていた家電製品や家具は粗大ゴミになってしまう。まだ使えるのに。もったいない。

 市場経済社会は商品大量廃棄によって成り立っている。品不足は許されず、常に市場では商品がだぶついている。この映画はそんな流通の隙間を、「落穂拾い」という視点から透かして見る。貧しいから落穂拾いをする人たちも出てくるけれど、この映画には「大量消費社会に対する反逆」として、落穂拾いに精出す人たちが何人も登場します。ブーツ姿で町を闊歩するヒゲ男や、青果市場で野菜クズを拾って食べている男はちょっと格好いい。

 アニエス・ヴァルダ監督はこの映画そのものを、「映像の落穂拾い」と命名している。落穂拾いへの心理的な共感が、この映画の根底にはあるのです。

(原題:LES GLSANEURS ET LA GLANEUSE)

2001年6月24日11:00上映 ランドマークホール(ランドマークプラザ5F)
(第9回フランス映画祭横浜2001/アニエス・ヴァルダ特別上映会)

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