小人の饗宴

2000/11/10 メディアボックス試写室
ヘルツォークが1970年に28歳で撮った挑発的な映画。
最後のゲゲゲゲ笑いが耳から離れない。by K. Hattori


 話の内容がわかるとかわからないとか言う以前に、映画の存在感そのものに打ちのめされ、ノックアウトされてしまうような作品というのが時々ある。観客に挑みかかり、圧倒的なボリュームで押しつぶしてしまったり、急所をグサリと指して息もできない窮地に追い込んでしまう映画だ。例えば『2001年宇宙の旅』や『地獄の黙示録』がそうだろう。どちらも映画史に残る作品だと思うが、作品評価という点では毀誉褒貶がある。それになんだか難しい。作り手が観客に何を訴えているんだかよくわからない。話の筋立てが理解できたとしても、その話を生み出すに至る動機がわからなない。些細なディテールにものすごく凝っていたり、大予算のスペクタクルがあったりする様子に目を奪われ拍手喝采する観客たちも、なぜ作り手がその映画にそこまで執着するのかまったく理解を超できないような映画たち。たぶんこういう映画というのは、観客が必要とする以上に作り手の思いが過剰なのだ。その過剰さが、作品の「これでどうだ!」「参ったかこの野郎!」という雰囲気に結びつく。ヴェルナー・ヘルツォークの『小人の饗宴』も、おそらくそうした過剰な映画のひとつなんだと思う。

 人里離れた場所に小人ばかりを収容した施設がある。その所長が留守をしている間に、収容されていた小人たちが大騒ぎを起こすという、ただそれだけの映画。この映画を観たあとは、たぶん誰もが間違いなく「嫌なもの観ちゃったなぁ」と思うだろう。特別に残酷な場面があるわけではないし、モラルに反するような行為が行われているわけではない。小人たちはひたすら悪ふざけに熱中しているだけなのだ。それを止める人が誰もいないため、悪ふざけは際限なくエスカレートする。この映画が描いているのは、ただそれだけだ。誰か主人公が中心になって物語が動くわけではないし、物語に起承転結があるわけでもない。エピソードのつながりもかなり混乱していて、全体の時間の流れもまったくわからない。このい映画は「なぜ?」とか「どうして?」とか「それからどうした?」という観客の疑問に答えることなく、ただ目の前で行われている乱暴な騒ぎをフィルムに記録していく。カメラポジションも独特で、会話シーンでの切り返しやカット割りがなければ、ドキュメンタリー映画と見まがうばかり。カメラで撮影されている事態の混乱ぶりに比べて、カメラはやけに冷静沈着だ。

 登場人物は全員が小人。身体のプロポーションは子供のようで、喋る言葉も甲高くて子供っぽい。やることも子供っぽいイタズラが多い。しかしそれぞれの顔は、シワの目立つオジサンとオバサンたちなのだ。子供の俳優ばかりでギャング映画のパロディをやる『ダウンタウン物語』という作品があるが、『小人の饗宴』で描かれる騒乱も一般社会のグロテスクに変形されたパロディなのだ。あのラクダがどこから出てきたのか、なぜ小人は最後まで笑い続けているのか、まったく意味はわからない。でもこの世はすべて、意味のわからないことだらけだ。

(原題:Auch Zwerge haben Klein angefangen)


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