トゥー・アンド・フロー

2000/10/30 渋東シネタワー2
(東京国際映画祭・シネマプリズム)
3年ぶりの故郷でメキシコ人青年を待っていたのは……。
主人公のダメっぷりが徹底している。by K. Hattori


 メキシコの小さな田舎町に、フィリという若者が意気揚々と帰ってくる。彼は3年前に母と暮らしていた大地主の屋敷を飛び出し、アメリカに出稼ぎに行っていたのだ。母への手みやげ持参で故郷に錦を飾ったつもりのフィリだったが、留守の間に母は亡くなり、彼に親切だった屋敷の主人も死んで当主は息子に代替わりしている。それだけならまだしも、恋人だったソレダッドは親友のルイスと結婚して子供まで生んでいる。平和だった町では屋敷の新しい当主とルイスの家の間で水源地の権利を巡って争いが起きており、フィリの帰郷早々にルイスの父が殺されてしまう。フィリは再び町を出るが……。

 ダメな男がダメさゆえにドツボにはまっていく様子を描いたメキシコ映画。偶然や運命という星の巡り合わせで主人公が転落して行くなら多少の同情もできるが、フィリは自分自身の弱さゆえに奈落の底まで落ちて行く。故郷の町で農民として暮らすことを嫌い、かといって都会でもまともに働くことができないフィリ。大言壮語するばかりでまったく行動が伴わず、ルイス相手に洗練された都会人を気取って見せても、すぐにメッキがはがれてしまう情けない男。さんざん偉そうなことを言っていたフィリの化けの皮が、少しずつ剥がれていく様子は滑稽だが残酷。如才なく立ち回ろうとしても、ただ調子がいいだけでは世の中を渡っていくことなどできない。世の中そんなに甘くないのだ。でもそうした世間の世知辛さを、理解できないのかあえて目を背けているのか、フィリはまったく学ぼうとしない。強いものに媚びへつらい、弱いものには居丈高に振る舞い、田舎の町では都会で成功した男を演じ、都会では洗練された男を気取るが、それはすべて上辺を取り繕うポーズに過ぎない。

 現代のメキシコを描いている映画だが、財力を持った町の有力者が警察や役人を抱き込み、自分と敵対する相手を部下への命令ひとつで殺しても何のおとがめもなし。サム・ペキンパーの『ガルシアの首』にも絶大な権力を持ったメキシコの大ボスが登場するが、それと同じような状況が今もメキシコには残っているらしい。アメリカ映画では無法者たちが自由な別天地を求めてメキシコに越境するのが常だが、この映画では主人公が現実逃避と実際の逃走のはてにアメリカに向かうというのも面白い。越境労働者たちを乗せたトラックの中で、彼だけがアメリカに夢も希望も持っていない人間だ。彼はメキシコにはいる場所がない。かといって一度失敗したアメリカでの暮らしが今度は成功するとも思えない。

 何の実力もないくせに自分が何者かと勘違いしたり、何の努力もしないまま成功が手に入れられるはずだと自惚れたりするフィリのような人は、日本にだって大勢いるはず。ただ日本は経済的に豊かなので、フィリのようなダメ人間も欠点を露わにすることなく生き続けることができる。まぁこれは、僕自身にも言えることだけどね。何の才能も努力も実力もなしに、何となく食えるだけの仕事にはありつける日本は本当にいい国だよ。

(原題:De Ida y Vuelta)


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