愛のコリーダ
2000

2000/08/25 GAGA試写室
阿部定事件をモチーフにした大島渚の代表作。
ボカシはあるが、本編はノーカット。by K. Hattori


 昭和11年5月18日。東京荒川区の待合「満佐喜」に宿泊中の小料理店経営者・石田吉蔵が愛人の阿部定に絞殺され、遺体から男性器を切り取られるという事件が発生した。有名な阿部定事件である。この事件を映画化した大島渚監督の『愛のコリーダ』は、事件の30年後の昭和51年に日仏合作映画として完成。全編が濃厚な性描写で埋め尽くされたこの野心作は、日本では監督の意に添わない大幅な修正(ぼかし)と一部シーンのカットを経て公開された。今回GAGA配給で上映される『愛のコリーダ 2000』は、ヘア解禁された現在の映画事情にあわせてボカシ修正を最小限にし、なおかつ以前カットされた場面を完全に残した「本編ノーカット版」。本当なら全編無修正で上映したいところだろうが、映画の中にはヘアだけでなく、男女の性器がバッチリ映っている場面がいくつもある。現時点でこれを無修正で公開するのは不可能だ。日本の映画ファンが『愛のコリーダ』を無修正で観ようと思えば、海外に行くしかない。

 映画の見どころは、やはり映画全編に散りばめられた濃厚なセックス描写だ。この映画は主人公たちの愛情の結果としてセックスを描くのではなく、セックスを通してふたりの関係を描こうとしている。だから当然、セックス描写は念入りになる。男女の性器が画面に大うつしになるし、フェラチオや口内射精、男女の接合部などもしっかり画面にうつっている。男性のペニスがそそり立っているのか、それともだらしなくお辞儀しているのかなど、普通の映画なら登場人物の台詞などで説明してしまう部分も、この映画では直接的に描写されている。これを「猥褻か芸術か」という二元論で語っても仕方がない。この映画は男女の痴態というひどくパーソナルな、それだからこそ猥褻な行為の中にある「美」や「真実」を描こうとしているのだろう。この映画はひどく猥褻だ。猥褻だからこそ、この映画は芸術になっている。

 映画はほとんど室内シーンのみで構成されている。そこで絡み合う、主人公たちふたり。繰り返されるセックス。食事もとらず、トイレに行く時間も惜しむように、ふたりは互いの肉体を求め合う。この映画の中では、時間も空間移動もほとんど無視される。待合から別の待合への移動は、セットの違いや女中の顔ぶれの違いで表現されるだけだ。主人公たちにとって、場所はどうでもいい。ただお互いの肉体だけが、その場所に存在する。世間のあらゆるしがらみから離れて、ただ互いのセックスだけを求め合う。定が若い女中を押し倒して吉蔵に「この娘をやっちゃって」と言うと、その女中が「お嫁に行けなくなっちゃう」という場面のおかしさ。これは待合で働く不細工な女中が、じつは清らかな結婚を夢見ているという不似合いさが面白いのではない。家や家族の一切を捨てた主人公たちの前で、突然「結婚制度」という俗世間の言葉がぶつけられるのが面白いのだ。

 画面の中に、突然たなびく鯉のぼり。兵隊たちの列。カメラが突然屋外に出る場面には、思わずドキリとする。

(原題:L'EMPIRE DES SENS)


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