アンドリューNDR114

2000/03/14 SPE試写室
ロボットと人間の恋を描いたアシモフ原作のSF映画。
監督はクリス・コロンバス。いま一歩。by K. Hattori


 『ミセス・ダウト』のクリス・コロンバス&ロビン・ウィリアムズが、アイザック・アシモフのSF短編「バイセンテニアル・マン」を映画化。2時間11分という上映時間は長いようにも感じるが、この中に200年という時の流れを押し込み、密度の濃い内容になっている。西暦2005年、マーティン家にやってきた家庭用万能ロボットNDR114は、アンドリューと名付けられ一家のために家事や庭仕事、子供の世話などを始める。だがこのロボットには、他のロボットとは大きく違うユニークな一面があった。それはこのロボットが「自意識」を持っていることだ。一家の末娘“リトル・ミス”ことアマンダのために木彫りの馬を作ったのが、アンドリューのユニークな才能の最初の現れだった。アンドリューはロボットならではの従順さと、ロボットにあるまじき独創性を次々に発揮する……。

 物語のテーマは「人間とは何か?」ということなのでしょう。それを象徴するエピソードとして、映画の後半はアンドリューと人間の女性のラブストーリーになります。はたして人間とロボットの間に恋は芽生えるのか。人間とロボットの結婚は可能なのか。クリス・コロンバスという人は単細胞なので、「ロボットに人格があるなら、結婚だって可能だ」と言いたげです。リベラルなのですね。でも僕はこのエピソードに、どうしても違和感を持ってしまう。ロボットはしょせんロボットであって、そこに人格があるように見えたとしても、それが本当の人格かどうかはわからない。例えばこの映画には、ガラテアというチャーミングな女性型ロボットが登場します。このロボットには人格回路が設定されていて、人間めいた仕草や行動をプログラミングされている。ガラテアの人格はプログラミングの結果であって、本当の人格ではないらしい。ではガラテアとアンドリューの間にある差は、どれぐらい大きいんだろうか。それは程度の差なのか、それとも質的な差なのだろうか。そのあたりをもっと踏み込んで描かないと、アンドリューの結婚はグロテスクに見えてしまいます。アンドリューは人格回路が極度に複雑化したダッチハズバンドになってしまう。

 結局、ここで問われるべきは「魂」の問題であり、キリスト教的な言い方をすれば「霊」の問題なのだと思う。キリスト教によれば、神が霊の息吹を吹き込んだ創造物は「天使」と「人間」だけだという。結婚とは人間同士の霊的結びつきを教会が承認するものです。役所が認めなくても教会が認める関係はあるだろうし、その逆に、役所が求めても教会が認めない関係がある。今現在でも、役所が認めなくてもゲイの結婚式を挙げる教会が一部に存在します。それはゲイのカップルの霊的な結びつきを、その教会が承認しているからです。アンドリューはまず教会に行って、女性との結婚式を挙げればよかった。そうすることでアンドリューの人格が本物であることにお墨付きを与えておけば、物語の終盤はずっと飲み込みやすいものになったと思う。

(原題:Bicentennial Man)


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