息づかい

2000/01/20 東宝東和一番町試写室
『ナヌムの家』『ナヌムの家II』に続くドキュメンタリー映画。
韓国の元従軍慰安婦たちの今を記録する。by K. Hattori


 第二次大戦中、従軍慰安婦として塗炭の苦しみを味わった韓国女性を追跡したドキュメンタリー映画『ナヌムの家』『ナヌムの家II』のビョン・ヨンジュ監督が、シリーズの第3弾として作った最新作。性暴力や性産業従事のための人身売買といった話は、それがどこの誰に起きた話であっても、平和で豊かな時代に生きる我々にとってあまり愉快なものではない。そこには必ず「犯す者=加害者」と「犯される者=被害者」が存在するのだが、従軍慰安婦問題に関しては我々日本人が「犯す者=加害者」だとして告発されているのだ。過去2作も含め、これらの作品を平常心で観ていられる日本人がいるだろうか。多くの人たちは、目の前に突きつけられた「事実」から目を背け、見て見ぬ振りをしてしまいたくなるだろう。それが人間の持つ、ごく当たり前の心理的防御本能というものだ。しかし僕は、この作品をより多くの人たちが観るべきだと思う。右だの左だの主義主張は関係ない。今現在、日本のすぐ隣の国に、戦争中の日本の犯罪を声高に叫び続けている人たちがいるという、その「事実」だけでも知っておいて損はないはずだ。

 韓国は儒教の国である。儒教の聖典である「論語」には、葉公が孔子に「私の仲間は正直で、父が羊を盗めば子がそれを訴え出ます」と自慢したところ、孔子が「私の仲間の正直者は反対に、父の過ちは子が隠し、子の過ちは父が隠します。それこそ本当の正直というものです」と答えた故事が載っている。身内の非や罪は、たとえ嘘を付いてでも認めない。異なる事実認定に基づいた意見の対立があったとき、当事者の一方が自分の身内であれば、迷わず身内の側に与する。それが儒教の考え方だ。従軍慰安婦問題に限らず、日本の朝鮮統治時代についての考えは、日本と韓国とで言い分が大きく違う。日本と韓国が対立したとき、韓国は自国民の非を絶対に認めないはずだ。歴史上の事実など、そこでは問われることがない。韓国人と日本人が言い争っているとき、韓国人なら何も考えずに同胞の言い分を「正しい」とする。儒教の国ではそれこそが「正直者」と賞賛されるのだ。

 『息づかい』には、そうした正直者が大勢登場する。監督のビョン・ヨンジュもそのひとりかもしれない。しかしどうやらこうした儒教型の正直者は、核家族化が進む現代の韓国では分が悪いらしい。彼らの運動は一般市民を巻き込んだ国民的運動にはならず、構成員はハルモニと呼ばれる元慰安婦とその取り巻きだけ。高齢化したハルモニたちは、ひとりまたひとりと亡くなっていく。僕は『ナヌムの家』を観たときから、これは韓国内の一般市民に向けられた映画だろうと解釈した。しかし彼らの声は、いまだに韓国内で広い支持を得ることができない。閑散とした集会の風景や、「いまだに私たちのことが教科書に載らない」と嘆くハルモニたちが哀れだ。

 観る人によって、観る場所も興味深く感じる点もまったく異なる映画だと思う。この問題に少しでも興味のある人は、思想の右や左に関わらず観るべき映画だと思う。

(英題:My Own Breathing)


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